キャスト

坂東玉三郎

1956年、十四代目守田勘弥の元に弟子入りし、坂東喜の字を名乗って、翌年7歳で初舞台を踏む。64年守田勘弥の養子となり、五代目坂東玉三郎を襲名。69年、作者である三島由紀夫の要望で演じた「椿説弓張月」の白縫姫役でその人気を決定的なものとし、歌舞伎界随一の人気女形として現在に至っている。82年からは歌舞伎の海外公演に参加し世界中で賞賛を得た。歌舞伎、舞踊など日本の伝統芸能以外での活動も多く、ヨーヨー・マ、モーリス・ベジャール、アンジェイ・ワイダなど世界の芸術家とのコラボレーションを行っているほか、舞台の演出も手がけ演出家として高い評価を得ている。さらに数本の映画に特別出演したのち監督にも進出。監督作に『外科室』(91)、ベルリン映画祭に正式出品された『夢の女』(93)、『天守物語』(95)がある。2012年に歌舞伎女形として重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定、2013年にはフランス芸術文化最高章「コマンドゥール」受章、2019年高松宮殿下記念世界文化賞受賞。

武原はん

日本を代表する古典舞踊家であった武原はんは、1903年徳島市に生まれ、12歳の時に一家で大阪に移住。太和屋芸妓学校に入り、上方舞を山村千代に師事したほか、狂言、三味線等芸事一般を身につけた。その後舞踊を西川鯉三郎らに習い、30年に上京。32年に東京で行われた上方舞の公演で、上方舞の代表作「雪」を舞って好評を博し、舞踊家としての名声を高めた。52年には第一回「武原はん 舞の会」を行い大成功を収めてからは、東京でのリサイタルを中心に活動、上方舞の枠を広げた独自の舞台芸術を築き上げた。武原はんが習った山村流をはじめとする上方舞は、座敷で舞うものであるが、はんはそれを舞台で演じるものにした。腰を深く下ろし、まるで地を這うように舞ったという昔の山村流の舞ぶりから離れて、文楽人形芝居の人形や鈴木春信、歌麿の浮世絵にヒントを得た体を美しく見せる独特の方法は、日本舞踊の伝統の中に新たな美の世界を打ち立てたものといえる。武原流家元。85年日本芸術院会員となり、88年文化功労者。東京都名誉都民。1998年2月に95歳で逝去。

杉村春子

1909年年広島市生まれ。日本の映画・演劇界を代表する大女優。27年築地小劇場に入り「何が彼女をそうさせたか」で初舞台を踏む。築地座を経て、37年の文学座の創立に加わり、以降その中心的存在となる。代表的な舞台は森本薫作「女の一生」で、その上演回数は947回に及んだ。ほかにテネシー・ウィリアムズ作「欲望という名の列車」のブランチ役や三島由紀夫が彼女のために書き下ろした「鹿鳴館」の伯爵夫人役など数々の名演技を残している。また、その確かな演技がかわれ30年代から多くの映画に出演。黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男など日本映画を代表する監督たちの作品に相次いで主演、助演し、高い評価を得た。代表的な映画作品としては『書かれた顔』に部分的に引用されている成瀬巳喜男監督『晩菊』(54)や小津安二郎監督『東京物語』(53)などがある。74年に文化功労者となる。「舞台女優」「自分で選んだ道」「ふりかえるのはまだ早い」などの自叙伝がある。1997年に91歳で逝去。

大野一雄

1906年北海道函館生まれ。1929年から約50年におよび横浜で体育を教える。その一方で舞踏家を志し、江口隆哉、マリー・ウィグマン等に学ぶ。60年ごろに土方巽に出会う。この出会いが新境地を拓くための大きな刺激となった。1977年「ラ・アルヘンチーナ頌」を発表。日本のみならず海外でも大きな反響を呼び、以降「わたしのお母さん」「死海―ウィンナーワルツと幽霊」「睡蓮」「蟲びらき」「花鳥風月」と、世界をまたにかけた公演活動を晩年にいたるまで精力的に続けた。100歳を超えても舞台に立ち続けたが、2010年に横浜市内の病院で死去。享年103歳だった。大野の舞踏は、魂の動きに肉体がついていくような精神性の高い独特なスタイルであり、今なお熱狂的なファンを生み続けている。 映画とも関わりが深く、長野千秋監督による『O氏の肖像』(69)や『O氏の曼陀羅―遊行夢華』(71)、平野克己構成・演出の『魂の風景』(91)等の作品に出演している。また、著書に「舞踏譜:御殿、空を飛ぶ」(思想社)がある。

蔦清小松朝じ

1894年(明治27年)東京生まれ。本映画製作当時(1995年)は101歳で日本最高齢の芸者だった。子供の頃から三味線が好きで、自ら志願して芸者となる。唄や踊り、三味線、太鼓や行儀作法など、芸者になるための厳しい修行を吉原で積んだのち、十六歳で芸者デビュー。以降80年の長きにわたり格式の高さを誇る柳橋で芸者を続け、“柳橋朝じ”として多くのファンがいた。三味線を弾きながら唄う常磐津節の第一人者であり、文部省大臣賞、黄綬褒章などを受賞。「女はきりきりしゃん」という自伝の著書がある。1996年8月に102歳で逝去。

スタッフ

監督:ダニエル・シュミット

1941年12月26日スイス・アルプス山中の村フリムス=ヴァルトハウス生まれ。祖父は『今宵限りは…』や『季節のはざまで』の撮影でも使用したホテルの経営者で、シュミットは映画同様そのホテルで祖父母に育てられた。10代半ばから映画、オペラ、コンサート、演劇に魅せられる。高校卒業後、ベルリン自由大学に入学し、歴史や文学、ジャーナリズム、政経を学ぶ。65年より助監督としてつく一方、自らも短篇を撮り始める。66年より映画・TVアカデミーにも通い、そこでライナー・ヴェルナー・ファスビンダーらと出会う。
71年、ファスビンダー、その妻イングリット・カーフェンと共に製作会社“タンゴ・フィルム”を創設。72年、長編第一作『今宵かぎりは…』を完成させ、これがヴィスコンティの目に留まり、彼の口添えで各国の映画祭で上映され注目を集める。続いて、その名を決定づけた『ラ・パロマ』を発表。カンヌ映画祭で上映されるや、その夢幻的世界がマーティン・スコセッシを始め、多くの熱狂的ファンをつくった。以降、空想性、幻想性に満ちた独特の虚構的映像作品を発表した。またオペラ好きが高じて84年からオペラ演出も手がけ、いずれも成功をおさめる。俳優としても『アメリカの友人』(77)、『ロベルトは今夜』(77)などにも出演した。2006年8月、生家にてガンのため死去。

撮影:レナート・ベルタ

1945年スイス、テッシン州ベリンツォーナ生まれ。60年から64年まで技師見習いをした後、65年から67年までローマの映画実験センターで撮影技術を学ぶ。卒業後、撮影監督となり、シュミットの全長編をはじめ、タネール、ミシェル・ステール、ストローブ&ユイレらの作品を手掛け“スイス・ヌーヴェル・ヴァーグ”の成長とともに歩む。1982年、パリに移り住み、パトリス・シェローの『傷ついた男』を皮切りにフランス映画界で活躍。リヴェット、ロメール、テシネ、ジャコと敬愛する映画監督たちの作品を次々手がける。『サラマンドル』(71)、『トスカの接吻』(84)でEDI賞、『さよなら子供たち』で87年セザール賞、2008年マールブルク・カメラ賞、11年『Noi Credevamo』でダヴィッド・ディ・ドナテッロ撮影賞を受賞。84年、「アラン・タネール映画祭」に監督の代理として初来日。88年には「レナート・ベルタ映画祭」が開催された。

プロデューサー:堀越謙三

1945年東京生まれ。1967年早稲田大学第一文学部独逸文学専修を卒業して渡独。1970年マインツ市で友人と会員制旅行代理店「欧日協会」を創業。1971年マインツ大学ドイツ文学科修士課程を中退して帰国。1977年ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーなどのニュー・ジャーマン・シネマを紹介する「ドイツ新作映画祭」を開催。1982年に渋谷にミニシアター「ユーロスペース」を開館。独自の興行・配給を行い、ラース・フォン・トリアー、フランソワ・オゾン、レオス・カラックス、アッバス・キアロスタミ、アキ・カウリスマキらの先鋭的な映画を作家主義的な視点で公開、ミニシアターブームを牽引した。1991年からは日本映画の製作、海外との共同製作も手がける。1997年アテネ・フランセ文化センターと共同で「映画美学校」を設立。1999年金沢にミニシアター「シネモンド」開館。2005年東京藝術大学大学院映像研究科を立ち上げ、2005年~2013年まで教授を(現名誉教授)を務める。現在は開志専門職大学教授。2005年第23回川喜多賞を受賞。2008年フランス共和国芸術文化勲章シュヴァリエを受章。現在はユーロスペース代表取締役の傍ら、2014年に立ち上げたライブホール「ユーロライブ」で「渋谷らくご」「渋谷コントセンター/テアトロ・コント」「浪曲映画祭」などの定例自主公演を行う多目的ホールを運営する。また、2023年3月から毎年開催予定の「新潟国際アニメーション映画祭」実行委員長に就任。著書に「インディペンデントの栄光 ユーロスペースから世界へ」(筑摩書房刊)がある。